「……まぁ、仕事があるのはいいことかもね……」
とは言え、いつまでも戦隊モノの女優と言うわけにもいかないだろう。
そろそろキャリアアップを目指さなければ、と思っているのだが、案外、事務所もマネージャーもこれが相応しいものだと考えているらしく、その方針で売っていくつもりらしい。
「……で、レイカルたちは何をやっているのかしら? さっきまで算数の勉強をしていたところよね?」
ノートに書き付けをさせていたヒヒイロであったが、すっかりレイカルは春の陽気に当てられてうたた寝をし始めている。
「こら、寝るなってば。……ヒヒイロぉー、注意しないでいいのか?」
肘で小突いたカリクムに、ヒヒイロは腕を組む。
「なに、困るのはこやつじゃからのう」
「……何なのよ。レイカルに勉強を身に付けさせるのは作木君からの要望でもあるんでしょ?」
疑問に感じて問いかけると、ヒヒイロはホワイトボードを指差す。
「ええ、ですから少し厳しめに……学科テストを設けようと思いまして」
想定外の言葉に小夜は目を白黒させる。
「……学科テスト……?」
「これまで学んできた内容の反芻です。別段、難しいものではございません。せいぜい、小学校二年生レベルのものなのですが……」
くかー、と寝息を立てるレイカルに、カリクムはその肩を揺さぶっていた。
「起きなさいってば。あんたのことを言ってるんだからね」
「ん……っ、あれ? カリクム? 変だな……布団に入って寝たような気がしていたのに」
「授業で熟睡してるんじゃないわよ! ……って言うか、本当にこんなんで大丈夫なのか、ヒヒイロー。レイカルの奴、最初から無理だろ」
「なに、最近では足し算の概念をようやく覚え始めたところ。それに、四月と言えば新学期が始まり、出会いの季節じゃからのう。少しばかりはその空っぽな脳にも詰め込んでもらわねばならん」
「……ヒヒイロ、何気に辛口よね……」
感嘆しているとレイカルは寝ぼけ眼を擦り、よだれで汚れたノートを見て仰天する。
「わっ……! 誰だ! 私のノートをこんな風にしたのは……! お前か! カリクム!」
「……あんた以外居ないでしょうが……。よだれまみれのノートを振り翳すな、汚いんだからなぁ、もう」
呆れ返ったカリクムを他所に実直に授業を受けるのはラクレスとウリカルである。
弟子であるウリカルはまだしも、ラクレスまで授業に集中しているのは意外であった。
「あれ? ラクレス、あんた……。別に勉強しなくってもどうにでもなるでしょ?」
ラクレスはとんとんと教科書を整えてから、赤縁の伊達眼鏡のブリッジを上げていた。
「学びと言うのは大事なものです。殊に、オリハルコンにとってのそれは致命的とも言えるでしょうし。生きていた時代と、現在の常識がイコールとは限らないのですから」
そう言えば、ラクレスは「ノイシュバーンの魔女」の異名を取るベイルハルコンだったのだ。
彼女の知識量はここに居るオリハルコンならばヒヒイロくらいでなければ比肩できないだろう。
ある意味では先達として、彼女は模範生であろうとしているのかもしれない。
「あの、ラクレスさん……っ。ここのところの問題がちょっと自信がなくって……いいですか?」
ノートを見せたウリカルにラクレスは丁寧に応じていた。
「ああ、これは掛け算のほうを先にするのよぉ。足し算は後でねぇ」
「……それにしたって、ちょっとびっくり。ラクレスにそういう才能があったとはねぇ……」
ナナ子の感想を受け止めたレイカルはむっとする。
「それじゃ、まるで私がそういうのに長けていないみたいじゃないか、ナナ子」
「実際にそうでしょうに……」
呆れ返った小夜に、レイカルはウリカルへと詰め寄る。
「ウリカル! 私に教えて欲しいことはないか? 何でも聞いてくれていいんだぞ!」
「あっ、それはそのぅ……そうですね、じゃあ……戦闘の心得とかを……」
「結局、勉強以外じゃないの」
「何をぅ! 戦闘力ならこの中で一番なんだからな! そうだ! 組手をしよう、ウリカル!」
「あっ……今は勉強のほうが……」
遠慮がちのウリカルの声にレイカルは目に見えてしゅんとする。
「そ、そうかぁ……」
「案外、そういうのもラクレスのほうがいいんじゃないの? レイカル、あんたはちょっとバランスが足りないのよ」
「バランス……? 失礼だな、割佐美雷! バランスなら、この通りだ!」
そう言ってI字バランスをやってのけるレイカルに、ウリカルが拍手する。
「わっ……すごいです……!」
「そうじゃなくって。生きていく上のバランスだってば。創主である作木君は……ああ、そういえば作木君もバランスが悪いわね……」
春先は出費も増えることだろう。
大方、またバランスの悪い食生活をしているに違いない。
「……小夜。この後、作木君の家、でしょ?」
心得た様子のナナ子に小夜は後頭部を掻く。
「分かっちゃう?」
「相変わらずなんだから、小夜は。そう言えば、レイカルはちゃんと算数ができるようになったの?」
「むっ……私だって、いつまでも基本が分かっていないわけじゃないぞっ!」
「じゃあ、1+1は?」
「……それに関しては何度も言われたからな。砂山が増えなくっても、2なんだって言うことは飲み込むことにした」
心の底では納得してないような言い草ではあるが、それでも進展ではある。
「……じゃあ、1+2は? これも応用でしょ?」
「……割佐美雷、馬鹿にしてるのか? 2にいくら砂山を足しても、それは2だっ!」
自信満々に言うものだから、小夜は頭を抱える。
「……結局、一歩進んで三歩戻ってるじゃないの……。ねぇ、ヒヒイロ。レイカルにその辺は教えたの?」
「教えましたが、1+1は2と言うのに納得させるのに一昼夜、それ以上は私でも厳しいと感じてウリカルの勉強に当てることにしました」
要はさじを投げられているわけだ。
この状態ではなかなか算数の勉強ははかどらないだろう。
「……なぁ、ナナ子。そう言えば、ここ最近、小さい人間をよく見かけるぞ? あれは何なんだ?」
「小さいって言うな! ……って、思わず反応しちゃったじゃない。ん? それは何? レイカルにしか見えない妖精か何か?」
「いや、違ってだな……。何で、この時期って子供とかがみんなピカピカのランドセルを背負って出て来るんだ? 春になったら出て来るなんて虫みたいだな」
「あっ、もしかして新学期の概念が……レイカルには……ない?」
勘付いた小夜にレイカルは首をひねる。
「……シンガッキ……? 何だそれ。何かの怪獣みたいだ」
「新学期だってば。春になると新しい学期が始まって、それでみんな進級するのよ。そうなると……そっか。レイカルにしてみれば、小さい人間が増えたように見えるんだ?」
「って思うと……あんたら、どういうサイクルで考えてるの? カリクムは……」
「失礼だな。私は分かってるってば。幼稚園児とかが小学生になったり、小学生が中学生になったりとかだろ? そういう季節の巡りみたいなのは知ってるんだ」
どこかしたり顔のカリクムにレイカルは突っかかる。
「どういうことなんだ? 小学生って一生小学生じゃないのか?」
「レイカル……人間の社会には進級って制度があって……。この間卒業式をしたばっかりだろー」
「卒業式は……あれはそういうもんだろ? 分かんないな……小学生って言うのは何で中学に行けるんだ?」
「ちょっと待って……根本から考えるとこんがらがっちゃう……。えっと……つまり。レイカルは進学とか進級って分かんないんだ?」
額を押さえて考え込んだナナ子にレイカルは自信満々に答えていた。
「卒業は分かるぞ! ……けれど、進学って何だ?」
「うーん……これはある意味、人間社会の当たり前に切り込んでいるって言うか……。改めて言われると、説明しづらいわね……」
「レイカル。小学生はある程度まで成長すると、中学生になるんだってば。で、中学生は高校生になるって言う……」
カリクムの説明にもレイカルはいまいち分かっていない様子である。
「……中学生は中学生っていう生き物だろ? 高校生は高校生って言う生き物で……小学生はそうはならないんじゃ?」
「待って。待って……当たり前の進級制度をそう言われちゃうとよく分かんなくなっちゃう……。えっとー、レイカルって義務教育とかは……」
「分かるわけがありませんね……それも」
ヒヒイロが応じたのを聞いて、小夜とナナ子は互いに呻る。
「どう説明すればいいと思う?」
「私に分かるわけないでしょ。……レイカル、いい? レイカルの大好きな創主様である作木君は大学生、これは分かるわよね?」
「それは分かるぞ! 馬鹿にするな!」
「えっと……じゃあ、大学生になる前に、小学生だったり中学生だったりするのは……」
そう言い出すと、レイカルは不思議そうに首を傾げていた。
「……創主様は私が生まれた時から大学生だったぞ? それが何で小学生になるんだ?」
「……小夜。何だか哲学的な問いのように思えてきたわ……」
「私だってどう説明すればいいのか分かんないわよ……。って言うか、レイカルってその辺のルール分かってないのに卒業式は分かったの?」
「卒業はするもんだろ。それくらいは分かる」
ふんす、と鼻息を漏らすレイカルに、小夜はとうとう頭を抱えていた。
「……うーん、色々すっ飛ばして理解しているわけね……。じゃあ、そう! この時期には新学期があるのよ!」
「それはさっきも聞いたぞ。シンガッキって何なんだ?」
「えーっと……進級制度……って言ったって分かんないか。とにかく! この時期は幼稚園児が小学生になったり、中学生になったりとかして……」
「要は環境が変わるのじゃ。居場所が変わるとも言う。春は出会いと別れの季節、とものう」
ヒヒイロの補足にレイカルはようやく飲み込んでいた様子であった。
「……シンガッキってのは、つまり進化みたいなものか?」
「……まぁ、当たらずとも遠からずって言うか……」
「進化できるんだな? じゃあ、私もしてみたいぞ! シンガッキ!」
こう言い出すとレイカルが聞かないのは分かっているので、ナナ子と顔を見合わせる。
「……どうするの? 今日の関心は新学期になっちゃったわけだけれど」
「まぁ、見てなさい。レイカル、新学期を迎えようとすると、ちゃんと勉強しないといけないのよ?」
ナナ子の説明にレイカルは愕然とする。
「べ、勉強しないと……進化できないのか……?」
「……まぁ、そうとも言う……」
するとレイカルは転がって手足をバタバタさせて暴れる。
「い、嫌だぁーっ! 進化したーい!」
「ちょっ……レイカル。今は勉強中でしょ。あんたもちゃんと勉強しなさいよ」
苦言を呈したカリクムに、レイカルはむっとして言い返す。
「……お前も進化できないだろ、カリクム! いいのか? 私は進化したいって言うのに!」
「なっ……勉強しないのはそっちだろー! 小夜、何とか言ってくれよー!」
「そうは言ってもねぇ……。勉強しないと進化できないって言うのは本当だし……。でも、レイカル。進化したら何になりたいの?」
「それは……分からないが強くはなれるんだろ?」
ぼんやりとした答えではあったが、強さイコール進化と考えているのならば間違いではないのかもしれない。
「……まぁ、強い人って大概、賢いからね」
「だったら! 私は進化したいっ! シンガッキにもなりたいぞ!」
「待ってってば……うーん、じゃあ、やっちゃう?」
ナナ子の言葉に小夜は嫌な予感が這い登って来るのを感じていた。
「……面倒は御免よ?」
「分かってるって。レイカル、それにカリクムとウリカル、ラクレスもね。来なさい。新学期を迎えましょう」
「――えーっと、それで何で僕の家になるんです?」
事の次第を聞いていた作木は神妙に呻る小夜の顔を見返していた。
「……分かんないんだってば。ただ……やるんなら作木君の家のほうがいいって。ナナ子が言い出すもんだから」
「創主様! シンガッキへと進化しますっ!」
「あ、うん……。色々勘違いしているみたいだけれど、どうしようかな……」
とは言え、レイカルの興味は尽きないようで、テーブルの上に並べたミニチュアの机と椅子に視線が注がれていた。
「よく持っていたわね、こんなの。ミニチュアセットなんて」
「あっ、仕事で美少女フィギュア作る時とかに参考資料として持ってるんです。スケールが分からないと話になりませんし、最近じゃ稼働フィギュアとかはこうやってセット込みで売ってたりもするんで」
「……作木君、もしかしてそれで最近、食費を削っていたりとかしていない?」
うっ、と手痛いところを突かれた感触に声を詰まらせると小夜は嘆息を漏らしていた。
「……それは、そのぉ……」
「ま、仕事に必要なら仕方ないけれど、これだけは覚えておいて。身体も資本! よ!」
びしっと指差されて、作木はそれ以上言えなくなってしまう。