あるいは昨日のことのように。
確かに思い出せるはずなのに、どこか遊離して思えて。こちらから思い出そうとすると、何故だか拒む過去の断章。記憶の中の小さな、本当に小さな齟齬。
試みようとはした。
受け止めようとは思っている。
それが如何に虚飾に塗れていようとも。それとも、血濡れの偽りであったとしても。
自分は自分だと、誇れるように。
この記憶は自分のものなのだと、言い張れるように。
……だが何故なのだろうか。
人機に乗った時も、戦いの喧騒に疲れた時も、あるいは過去の消せぬ残留思念に悩まされる時も――。
いつだってそこにあったはずの思い出は、ぷつんと途切れ、そしてまた過去のるつぼの中へ。
どこにも見出せず、どこにも行けないまま。
過去は過去として、そう「処理」される。
こういう風に「造られた」からか。
――傷は瞬く間に塞がり、身体の成長速度を無理やりに叩き起こして治癒能力を引き上げる禁断の術。
その禁術の在り方の最たるものがこれなのかもしれない。
記憶が過去の介入を拒む。
思い出そうとすると、何度も、何度も、その度に波間が削がれるように。
消えていく、消えていく、確証も何もない闇の中へ。
そうして、ハッと気づくと自分は人機のコックピットに居て、そして海を眺めている光景の繰り返し。
消したいのか、あるいは単純に拒絶の意図があるのかは不明。
自分の思い出なのに、一時でさえもそんな感傷にふけることも許されず、過去は紅蓮の炎に焼かれ、恩讐の向こう側へと。
――メシェイル・イ・ハーン。
忌むべき名を紡ぐ声が聞こえる。記憶の暗がりから自分を誘うかのように。
――引き絞られた復讐の弓矢。敵の心の臓を射抜くまで、その命、枯らすこと許されず。
敵。
それはあの村からしてみての敵か。
敵……《モリビト一号機》?
敵……兄たるJハーン?
いや、敵とは……グリム協会?
分からない。何もかもが。
ずるずると身を引き摺るかのような闇の記憶。
血と肉と、そして硝煙に塗れた空気。
見果てぬ地平を焼き尽くす、恨みの炎。
どうすればいい? どうやって決着をつければいい?
誰も教えてくれない。グリムの者たちは去り、そして《モリビト一号機》の行方は未だに暗闇の中。Jハーンは……もう居ない。
居ない敵をどう屠れと言うのか。
分からない相手をどう射抜けと言うのか。
それさえもまだ――暗がりばかりで、壊れたブラウン管のテレビのように。
ノイズの砂嵐が過去を塗り潰すだけだ。
「――いやー、分かんないもんだねー」
上機嫌に言ってみせたエルニィに自分はむすっとしてベッドの上でふんぞり返っていた。
上に目を投じれば滅菌された白の天井で、居心地の悪い薬品の臭いの染みついたベッドに自分は上体を起こして寝かされている。
「……立花さんっ! 駄目ですよ! 怪我人なんですからっ」
隣で果物の盛り籠を携えた赤緒の諫言に、でもさー、とエルニィは笑い飛ばす。
「まさか思わないじゃん? メルJ、タケウマも乗れないなんて」
ぷぷっ、と笑いを含んだ声音に赤緒はもうっ、と呆れ返る。
「すいません、ヴァネットさん。あんなこと、言い出すんじゃなかった……」
「……いい。そもそも、だ。あんなもの、私も乗るもんじゃなかった」
こちらがあまりにも不機嫌だからか赤緒は必死に取り成そうとする。
「で、でもですよ? 私もその……乗れませんし……」
「赤緒はそうじゃん。当然でしょ?」
「当然だな」
二人分の声に赤緒はうぅと涙目になる。
「ふっ、二人で言うことないじゃないですかぁ……事実ですけれど……」
肩を落とした赤緒を他所にエルニィはこちらのギプスを巻かされた両足を包帯の上から撫でる。
「にしたって……すごい音したなぁ。ボキバキィッ! って。あんな音初めて聞いたよ」
「私も……。複雑骨折だとか……一応南さんは言ってましたけれど……」
「……こんなもの、すぐ治る。黄坂南は大げさだ」
言い捨てた自分にエルニィは、まぁ、とマジックペンを取り出しギプスに落書きしていた。
「たっ、立花さん……? 何を……」
「何って、ギプスに寄せ書き。寂しいでしょ、メルJ。三日は安静だってさー」
「……寂しくなんかないが」
「強がっちゃってー! ボクらは交代で来るから。今日は赤緒とボクねー」
「あっ、お見舞いの果物を……。えっと、林檎でも剥きましょうか?」
気を利かせようとする赤緒に自分は顎でしゃくる。
「いい。気分ではない」
「タケウマから落ちたのがそんなに不満?」
「……不満うんぬん以前に、あんな不具合ありきの乗り物、あっていいはずがない」
「不具合じゃないですってば! あれはああいうものなんです」
「……だったら余計に……気分が悪い」
「強情だなぁ、もう。いいよ、赤緒。今日は退散しよう」
「えっ、でも……」
まごつく赤緒の肩をエルニィが叩く。
「ボクらが居ると余計に苛立つんだってさ。まぁ、たまには一人もいいかもね。ただまぁ、今回に関して。アンヘルのメカニックとして言っておくよ。……治るのを待ってるからね」
お互いに素直になり切れないのだ。
自分はそっぽを向いて鼻を鳴らしていた。
「帰って来れば覚えているといい」
「だってさ。行こ、赤緒」
「た、立花さんってば、もう……。でも、お大事にしてください。複雑骨折って三日で治っちゃうんですね……不思議……」
赤緒の疑問を他所に、病室から出て行ったのをしっかりと確かめてから、メルJはギプスの位置をずらしてみた。
――思った通り。もう治っている。
「……身体の成長速度を速めて治療するまでもない怪我か。……連中は気味悪がるだろうな」
自分の身体の秘密に関してはアンヘル内でも知っているのは恐らく二人――両兵と南だけだろう。
いや、エルニィもあれで勘付いてはいるのかもしれない。
いずれにしたところで、暫くは……自分は一人。
「……馬鹿をやるものでもなかったのに、何で私はタケウマなんてのに乗ろうと、躍起になって……」
その疑問が行き着く先がどうしても見えず、メルJは滅菌された天井を仰ぎ見ていた。
「……慣れない天井は、嫌だな。辛いことばかり思い出してしまう……」
「――何よ。思ったよりも元気じゃない」
減らず口を叩いて翌日の病室のドアを叩いたのは、ルイであった。
「あっ、こんにちは……。ヴァネットさん、足……大丈夫ですか?」
窺う声を発したさつきにもう治っているとはさすがに言えず、ため息を漏らす。
「……日本のタケウマとやらは何なんだ。理解できん」
「あの、その……ご迷惑でしたよね……。神社で竹馬を見つけてその……はしゃいじゃったの……私ですし……」
ガラにもなく懐かしいと言い出したのはさつきだが、焚きつけたのは紛れもなく――。
「あの程度のオモチャにも乗れないのに人機の操主なんて務まるの?」
……この、目の前で全く悪びれた様子もない、ルイなのであるが。
「ルイさん! 駄目ですよ、そんなこと言っちゃ。乗れない人だっているんですから」
「それって赤緒のこと? 鈍くさいのね。メルJ。あんた、高速人機の操主はやめて、《ナナツーウェイ》にでも乗ればいいのよ。そうすれば怪我もしないわ」
「……黄坂ルイ……貴様……」
一触即発の空気に思われたのだろう。慌ててさつきが割って入る。
「わっ、わーわー! 駄目ですってば! 喧嘩は病院ではご法度なんですよ!」
「……さつき、うるさい。うるさいのも病院じゃご法度じゃないの?」
「誰のせいで言っていると思ってるんですか……もう。あっ、ヴァネットさん、林檎でも剥きましょうか?」
「……うむ。さつきならば安心だな。少し分けてくれ」
「私なら……?」
「赤緒が剥こうとしたんだ。だが危なっかしいから断っておいた」
嘆息混じりの声にさつきは微笑みかける。
「赤緒さんらしいですね。じゃあその……果物ナイフをお借りして」
「さつき、私のも」
「えっ、ルイさんは私と一緒にお見舞いに来たんじゃ……」
「お見舞いに来た人間には果物をあげちゃいけないの? 日本って難儀なのね」
ぐい、と顔を近づけさせて威圧するとさつきは断れないらしい。
「わ、分かりました……。じゃあ、その……何がいいですか?」
「その黄色いの」
「マンゴーですね。でも……大事がなくってよかった。すごい音がしましたよ?」
「それは昨日も聞いた。タケウマを侮っていたようだ」
うんざりして返すと、ルイがマジックペンを取り出し、ギプスに寄せ書きする。
「……何をしている」
「見て分からない? 自称天才がしたのと同じよ」
「……おい、さつき。こいつをつまみ出してくれ」
「る、ルイさん! ……もう。駄目ですってば。怪我人なんですから」
「怪我人なら今は何でもし放題ね。普段の恨みを晴らせる」
「……恨みを買った覚えはないが」
「充分じゃない。シュナイガーが直ってないのにアンヘルでデカい顔をしているのだもの」
「それは……」
「ルイさん、それは言いっこなしじゃないですか。大体、それを言い出したら、私たちだっていつどうなるか分からないんですから」
「さつきのクセに、生意気。いいのよ、メルJ。私がシュナイガーの操主に立候補しても」
「……そ、それは駄目だ。シュナイガーは渡さん」
意地になって言い返したところで、ルイはふんと鼻を鳴らす。
「そう、なら……万全に治しなさい。中途半端で戦線復帰されるのが一番に腹が立つんだから」
「ルイさん……もう、素直じゃないんですから。一日も早く治って欲しい、じゃないんですか?」
本音を言い当てたさつきの頬をルイは引っ張る。
「さつきのクセに……生意気」
「い、痛い、痛いですよ! ……もう、はい、マンゴー剥けましたから」
綺麗に三角に切り揃えたマンゴーをルイは頬張りながら椅子に座り込む。さつきはこちらへと、慮る眼差しを投げていた。
「……でも、私も思います。あっ……戦線復帰されると腹が立つのほうじゃなくって……万全に治してくださいね。……本当に聞いたことのないような音がしたんですから」
さつきの性格だ。皮肉を言うつもりもあるまい。
しかし、自分にとってしてみれば優しさもまともに受けるのはどこか性に合わない。
「当たり前だ。治った時には、まずはタケウマだな。あれをどうにかして……とっちめてやる」
「ぼ、暴力は駄目ですよ……。竹馬ではしゃいで、乗りませんか? って言ったのその……ごめんなさい」
「……何故謝る?」
「だって、私が言い出さないと、きっとヴァネットさん、乗ろうなんて思わなかったでしょう?」
「……いや、どうだろうな」
考え込む自分にさつきは不安げな声を絞る。
「ヴァネットさん?」
「……分からないんだ。別に何でもない、本当に何でもなかったはずなのに……。どうしてなのだか、あの姿に惹かれたのかもしれない……」
「竹馬の、ですか? 海外にも竹馬ってあるのかな……?」
中空を見上げたさつきの頬をぷにっとルイが指差す。
「アホ面二人組」
「もう! ……ルイさん、今日のご飯はちょっと少なめにしちゃいますから!」
さつきのご機嫌を取るでもなく、ルイはこちらへと顎をしゃくる。
「懐かしかったんじゃない? あんたにとっても」
「私にとって、タケウマが懐かしい……?」
その時、不意に頭痛が襲いかかってきた。
どうしてなのだか、思い出そうとすると何かを拒むかのように、頭の中がズキズキと激しく痛む。
「大変……! ナースコールを……!」
「いや、いい。……もう収まった」
「えっ……でも」
「いいんだ、さつき。本当に……」
本当に収まっていた。ほんの一瞬の痛みだったが、どうしてなのだろうか。
――とても深い、傷痕に触れた感覚がしたのは。
――分からない。
夢を見ているようだ、ということ以外は。
とても古い、乾いた土くれのような感触の夢であった。
直りかかったかさぶたを剥がして、血が滲んだような、そんな感触の、夢。
記憶、なのだろうか。しかし夢とは模造記憶のようなものなのだと聞いたことがある。
エピソードを断片的に再生し、繋ぎ合わせた脳の集積回路の補填情報。
だからちぐはぐは夢を見ることはあるし記憶にない場所を確かなものとして感じることもある。