赤縁眼鏡のどこかおっとりした雰囲気の相手に、メルJは微笑み返す。
そんな中で、あっ、と目の前のデスクに座る同僚がミスをしたのが伝わった。
「どうされました?」
「いや、ちょっと書類に不備があって……」
「こちらでやっておきますので、データを回してください」
「えっ……でも今、引き受けたばっかりじゃ……」
「手は空いていますから。修正チェックも大したことはありませんし」
「そ、そうかな……。じゃあお任せできる? ヴァネットさん」
「はい」
にこやかに返答して、メルJは書類の一部を引き受ける。
「それにしても……ヴァネット君は働き者だなぁ。まさか転勤してきてここまですぐに仕事を覚えるとは思いも寄らなかったよ。前の仕事場でも相当なやり手だったんだって?」
「ええ、まぁ。そうは言われていたのを記憶しています。部長、この書類に穴がありますので、直しておきました」
そう言って部長の座る執務机へと書類を差し出す。
ふむ、と部長は判子を押してそれを受理していた。
「それにしても、百人力だね、君は。みんな、ヴァネット君を見習うように」
メルJは会釈してから自分の席へと戻っていく。
隣に座ったおっとりとした様子の三つ編みの女性社員が、眼鏡をかけ直していた。
「でも、本当に何でもできちゃうんですねぇ、ヴァネットさん。憧れちゃいますよぉ」
「何でもできるわけじゃないさ。これも前の仕事先で学んだことだ」
こちらの返答に女性社員は感嘆の息をつく。
「それでも、まさか滞りなくここまで馴染むなんて。前職は相当に手馴れていたんだと思いますけれど……日本の会社は初めてだって書類には書かれていましたよね?」
「まぁ、それは確かなんだが……なに、何でも応用は効くというもの。私はこちらでの仕事には満足している」
「ヴァネット君が居れば、我が社の躍進も約束されたようなものだな」
部長の快活な笑い声にメルJは軽く頭を下げる。
「あっ……! お茶を淹れてきますね! そろそろ疲れたでしょうし」
隣の席の女性社員が立ち上がってお茶汲みに向かう。
メルJは書類仕事をこなしつつ、ふぅむ、と呻っていた。
「……しかし、私が日本の会社でOLとはな……」
「――よぉ、両兵」
呼びかけられて、両兵はソファの上で身を起こす。
勝世が片手を上げているのを目にして、不服そうに寝転がっていた。
「……ンだよ、勝世かよ。何の用だ? 言っとくが、面倒ごとは御免だぜ」
「そう言うなって。まぁ、面倒ごとっちゃ面倒ごとなんだがな」
歩み寄ってきた勝世は近場に置いてある将棋盤の上で駒を並べつつ用件を口にする。
「お前……産業スパイとか、言われればピンと来るか?」
「産業スパイぃ? おいおい、この日本にもそんなもんがいるのかよ」
「ああ、どうにもな。人機と言うこれからをけん引していくデカい代物には、やっぱりと言うべきか、危ない連中が付き纏うもんだ。南米でも腐るほどにそういう類は見てきたクチだが、どうやら日本の企業にも紛れ込んでいるらしい」
「それをオレにどうしろってんだ。見つけ出してどうこうしろとでも?」
「それに関して、手は打ってあることを報告しに来たんだ。トーキョーアンヘルからな」
胡乱な響きに両兵は寝返りを打って勝世と視線を合わせる。
勝世は真剣な表情でこちらを見返してくるので、両兵は佇まいを正していた。
「……あいつらに何かやらせてンのか?」
「ま、スパイと言ってもどこまでのレベルなのかは不明だ。人機の技術面での流出は避けたいって友次のオッサンや黄坂の姉さんの指示でな。産業スパイを洗い出すのに、少しだけでもいいから手を貸せとのお達しさ」
「……てめぇがやんのかよ」
「オレじゃ駄目だ。何だかんだで諜報員として他の組織に顔が割れている。だから、トーキョーアンヘルに協力を仰いだってわけさ」
両兵は頬杖をついて将棋の駒を動かす勝世と向かい合う。
歩が前に出るのを、両兵のさばいた駒が取っていっていた。
「……だが、目立てばその分、こっちも危ういのは分かってンだろうな? アンヘルの面子だって、どこまで相手に情報が割れているのかは分かんねぇんだ。敵の巣穴にむざむざ飛び込むってのはやめにして欲しいぜ」
「その点じゃ安心さ。今回は百戦錬磨を選んである」
「百戦錬磨? おいおい、まさか黄坂か?」
「姉さんはテレビに映っちまったからそう易々と潜入任務はできないんだ。だから、アンヘルメンバーからの選出になる」
勝世の駒が自陣に切り込んでくるのを、両兵は落ち着き払って対応する。
「潜入任務だと? ……今のトーキョーアンヘルにそういうのに長けた奴が居るとは思えんが……」
「一人だけ居るだろ? 世界を股にかけたそういうのが得意な奴が」
まさか、と両兵は息を呑む。
「あいつに、か? だがあいつが日本の産業スパイのあぶり出しなんてできるとは思えねぇが……」
「その辺は姉さんが叩き込んでくれたらしい。なに、果報は寝て待てってな。案外、お前が心配するよりもうまくそつなくやるかもしれない。そこんところは信用してやれよ」
「……信用、ねぇ……」
どうにも勘繰りが過ぎるのが自分の性分だ。
勝世が駒を進ませるのを、両兵は横合いからの応戦で取っていく。
「おっと、待った」
「悪ぃな。待ったはなしだ」
「……じゃあ負けでいいさ。どっちにせよ、お前に何も言わないのは常識にもとると思ってな。報告だけはしておいたぜ」
立ち上がった勝世に両兵は腕を組んで呻る。
「……あいつがそう簡単に順応できるとは思えんのだが……」
「そうか? なに、あのシュナイガーを盗み出したんだ。オレらの思っているよりも何倍も器用さ。――メルJ・ヴァネットはな」
「……器用、ねぇ……」
その結論に関しては、首をひねるしかなかった。
「――えっ、ヴァネットさん……日本の会社に?」
尋ね返した赤緒に南は湯飲みを覗き込んで返答する。
「そっ。まぁ今説明した通り、産業スパイの噂を聞きつけてね。誰を寄越してもいいんだけれど、他のみんなはさすがに企業に潜り込むのは難しいし……。でもメルJなら、そこんところも慣れたもんでしょ。おっ、茶柱」
赤緒は今しがた聞いた説明を反芻しつつ、首を傾げていた。
「でも、何で産業スパイが普通の会社に居るんですか? そこが分からないですけれど……」
「隠れ蓑って奴なのかもね。前に新幹線を擬装してキョムの技術が流れていたこともあったでしょ? その時みたいに、日本企業の裏でキョムが暗躍していることも、儘あると思ったほうがいいんだよ。だから今回はメルJの出番ってわけ。赤緒たちじゃ怪しまれるし、日本じゃボクだって無理。子供扱いだろうね。でも、メルJなら何とかなるとは思う」
エルニィの補足に、南はお茶を呷りつつ言いやる。
「まぁ、私が出られたらそれに越したことはないんだけれど、それは難しいって判断になっちゃったから。テレビで顔が割れると厄介ねぇ」
そう言えば南はアンヘルに人材を集う際、思いっ切りテレビ出演を果たしている。そういう点では動きづらいのだろう。
「……でも、ヴァネットさんがOLなんて……できるのかな?」
「あれで何だかんだあの子は器用よ。シュナイガーを盗んで世界を飛び回っていたくらいなんだもの。その前には《バーゴイルミラージュ》でロストライフの土地に赴いたりもしていたみたいだし。私たちの中じゃ適任かもね」
「……そういうものなんですかね。でも、もし……敵が手段を選ばなかったら?」
「それこそ、メルJの出番でしょ? 赤緒がもしOLとして潜入して、敵の襲撃を受けたらひとたまりもないだろうけれど、メルJは強襲とかそういうのには慣れているし、何なら反撃もできるかもね」
赤緒は自分がOLになった様を想像しようとして、まだまだ先の話にその姿は霧散する。
スーツを着込むことさえもない年頃だ。OLになっても何をやるのか、皆目見当もつかない。
「……でも、もしバレたら?」
「それはないとは思うけれど、まぁもしもは常に想定しておくべきよね。メルJなら回避する手段くらいは講じているとは思うけれど」
「まぁ、メルJだしねー。ボクらよりも場数は踏んでるでしょ。それよりも、赤緒、今日の晩御飯は?」
「あっ、鮭のムニエルで……って立花さん。そんなことを言っている場合なんですか? 一大事ですよっ。もしヴァネットさんに何かあれば……」
「赤緒ってば心配性過ぎー。メルJもいい大人なんだからさ、任務くらいはこなすでしょ。アンヘルメンバーでもあるし」
「そうね。赤緒さん、今回はメルJを信じてもらえる? そのほうがあの子にとってもありがたいと思うわ」
「……そう、ですかね。じゃあとりあえず晩御飯の準備には入りますけれど……」
煮え切らないものを感じつつ、赤緒は台所に戻ったところで、あっ、と気づく。
「いつもの人数分作っちゃった……。ヴァネットさん、いつ頃帰ってくるんだろ。ご飯とかきっちり食べてるのかな」
「赤緒さん、そんなに心配なさらないでも。ヴァネットさんも充分に大人でしょうし」
五郎にたしなめられるが、赤緒は不安で仕方なかった。
「……でも、いつもの食卓を囲めないのは、ちょっとだけ寂しいですよ……」
そう言ってため息をついていた。
「――では、お先です」
同僚たちが帰っていくのをメルJはにこやかに対応しながら、誰も居なくなったオフィスで、ふぅと嘆息をつく。
「……疲れるな。主に、表情筋が」
ぷにっ、と頬をつねってから作り笑いに疲れたのを感じつつ、メルJは周囲に誰も居ないのを確認してから、予め仕掛けておいた機器を手元のワンボタンで作動させる。
これでこの階層に仕込まれているカメラや盗聴器などの類は意味をなくしたはずだ。
きょろきょろと周囲を見渡し、まずは前に居た同僚のデスクを物色する。
「……めぼしい物はなし、か。やはり、上司が一任しているのかもしれないな」
部長のデスクも探るが、それらしいフロッピーもデータ媒体もない。
「……物理媒体の所有か? それなら逆に話は早いのだが……」
ふぅむ、と呻ったその瞬間、メルJは人の気配に勘付いて部長のデスクの陰に隠れる。
入ってきたのは自分の隣の席に居た女性社員だった。
スーツを着込んだまま、彼女は自分のデスクの棚の中に隠していたフロッピーを手にする。
まさか、とメルJは相手が立ち去る前に銃口を向けていた。
「待て。止まれ、そこの」
彼女はフロッピーを手にしたまま、その場で背中を向けて硬直する。
「……何か、ありましたかぁ? ヴァネットさん」
「……貴様、昼時には何の気配も感じなかったが……今は違うな。諜報員か?」
「……あれぇ? あなたもでしたか? ……おかしいとは思っていたんですよねぇ。事前に調べた名簿の中にない人だったから。警戒はしたつもりだったんですけれどぉ」
間延びした口調ながら、その佇まいには隙がない。
自分と同じ種類の人間であるのが透けて見えていた。
「貴様は……何だ?」
「その前に、後ろ、気を付けたほうがよさそうですけれどぉ?」
後ろ、と言われてメルJはその次の瞬間、オフィスの窓の向こうに大写しになった《バーゴイル》の姿を視認していた。
「……これは……! まさか貴様、キョムとの結託を……!」
その言葉が消え去る前に、プレッシャーガンの光条がオフィスを薙ぎ払っていた。
メルJはアルファーを翳し、砂礫と熱波の舞う景色で舌打ち混じりに叫ぶ。
「来い! 《バーゴイルミラージュ》!」
空中展開していた《バーゴイルミラージュ》がまず、自分をプレッシャーガンの銃撃から保護し、次いで敵の《バーゴイル》を体当たりで突き飛ばす。
オフィス街によろめいた敵が飛翔したのを、メルJはコックピットへと招かれて対峙していた。
「……こんなにすぐに仕掛けてくるとはな。だが、好都合だ。ここには何かあるのだと、お前らから言っているようなものなのでな」
自分の潜入が空振りに終わらなかったことを、今は感謝すべきだろう。
《バーゴイルミラージュ》は敵人機と取っ組み合いになる。
だが純粋なパワーなら、改修機であるこちらのほうが上。
敵《バーゴイル》のマニピュレーターを握り潰し、プレッシャーガンが無茶苦茶に掃射されるのを掻い潜って、メルJは声にする。
「ファントム!」