「……小河原さん、それは鉛筆ですよ? 何かとお間違えでは……?」
「……何だ、その決めつけみてぇなの。オレが鉛筆握ってりゃおかしいかよ」
「まぁ、ちゃんちゃら可笑しいよね。一年の間でペンを持たない日数のほうが多い人間だもん、両兵は。そりゃ、赤緒もディスイズアペンって言いたくなるよ。面白いよね、日本の英語教育って。何で誰が見ても分かるようなこと教えるんだろ」
エルニィは英語の教科書を捲って不思議そうに首をひねっている。その二人の組み合わせに、赤緒も疑問符を抱いていた。
「そのー……もしかして小河原さん、勉強してるんですか?」
「ああ、そうだが? ……何だ、その目つきは」
相当に胡乱そうな眼差しをしていたのだろう。赤緒は、だって、と言葉を継ぐ。
「小河原さんが勉強なんて……世界でも終わっちゃうんですか?」
「ねー、赤緒もそう思うよね? ボクも聞いた時には、天地がひっくり返るかと思ったもん」
「……うっせぇな、てめぇら。オレが勉強してりゃ悪いかよ……」
そう返しつつ、両兵は問題文を凝視して呻っている。どんな問題を解いているのだろうと窺うと、赤緒は眼を見開いていた。
「……さ、三角関数……? 小河原さん、何かの間違いなんじゃ……?」
「だーっ! 失礼な奴だな、てめぇも! オレが三角関数解いたら何かあるのか!」
「え、だって……前に立花さんが言ってましたけれど小河原さんって確か……」
「小学校中退。なのに今朝早くにボクに、三角関数教えてくれって言ってくるからさ。おや? これは別世界の出来事かな、って思っちゃった」
エルニィは教科書を漁りつつ、時折吹き出して笑う。
「でもさー、日本の教育って遅れてるよねー。こんなの勉強してるんだ? 赤緒って」
「ふぇっ……? あー! それ私の教科書……」
「いい教材がないから借りちゃった」
てへ、と反省の色が一ミリもないエルニィに怒ったところで仕方ないので、赤緒は両兵の勉強の具合を盗み見る。
「……なぁ、立花。オレが教わった当時の算数は、数字と数字の間に変な文字列が挟まっていなかったはずだが……?」
「そりゃ、算数だもん。こっちは数学。モーターの回転数とか、人機の力学とかの部分だし。両兵だって覚えはあるはずだけれど?」
「……そういうのはな、大概勘と経験の埋め合わせで何とかなンだよ……。この数式……つーのか? 何だ、意味分からんぞ」
「そりゃー、分かんないでしょ。さっき教えた通りに解けば解けるのに、何でうんうんうなってるかなぁ?」
心底不思議そうなエルニィに比して両兵は変な汗を掻いているようであった。
「……あっ、ヤベェ……。何だか視界が曇ってきやがった……。人機同士で戦ってる時でもこんな風にはならんはずなんだが……」
「……大変! お茶と何かその……気分を変えられるようなものを持ってきます!」
慌てて台所へと駆け出した赤緒は、でも、と小首を傾げる。
「……何で小河原さん、勉強なんて今さらしてるんだろ……。今の今までそんなことなかったのに……」
「――うん。今日の授業はここまで。新しい知識はきっちり頭に入ったかい?」
「はい! 先生!」
きっちりと返事する自分に対して、ルイはふんと鼻を鳴らす。
「ヘブンズじゃ常識レベルね。これを一から叩き込まないといけないなんて、あんたって可哀そう」
「なっ――! でも絶対! これも覚えて強い操主になるんだから!」
言い返した青葉にルイはどこ吹く風である。
「まぁ、せいぜい頑張れば? ポイントごとの地形なんて、足で稼ぐ以外に覚えられるとは思えないけれど」
「だが、ルイ君も物覚えがとてもいい。これは南君の教育の賜物かな?」
「……南は関係ないです」
素っ気ないルイに青葉は立ち上がって言いやる。
「コーヒーを淹れてきますね! 先生! ……ルイもここで待ってて。今日は私の当番でしょ」
「……そうだったわね。ただで飲めるコーヒーなんだから、他人に淹れてもらうのが一番だわ」
こちらの神経を逆撫でする言い回しをあえて使うルイに、青葉はむっとして教室を一旦出る。
「先生は、ブラックですよね? ……ルイはいつもの」
「私もブラックでいいわよ。操主としても甘々なのに、砂糖とミルクを入れないと飲めない誰かさんと違って」
明らかに喧嘩を売りに来ているのだが、ここで相手の思うつぼになってはいけないと自分に言い聞かせる。
「……ひとまず、行ってきます」
とぼとぼと厨房までの廊下を歩いていると、不意に視界に入った資料室の扉が開いていた。
「……あれ、いつもは閉まってるのに。誰だろ、開けっ放しはよくないから……」
閉めようとして、思わぬ背中に遭遇する。
「り、両兵? 何してるの?」
「ん? 何だ、青葉か。こっちゃ野暮用だよ。とっとと操主候補はオヤジの勉強でも受けて来い。このすっとこどっこいが」
相変わらず一言多い両兵の論調にカチンと来ながらも、青葉は資料をあれでもないこれでもないと探っている両兵へと歩み寄っていた。
「何してるの? ここって人機の資料室でしょ? いいの? 勝手に荒らしちゃって」
「うっせぇな、てめぇと違ってオレは関係者だからいいんだよ」
「わ、私だって関係者だもん! モリビトの下操主!」
「おー、そうかい、そうかい。なら、黙って出ていくんだな。モリビトの下操主には要らん世話だろ?」
しっしっ、とこちらを追い払おうとする両兵に青葉は怒りを覚えつつも、積まれている資料を垣間見て眼を輝かせていた。
「うわっ! これすごい! 昔の人機の設計資料! へぇー! 才能機って呼ばれていた頃の奴だ! 先生の言っていた通り!」
「……喧しいな。てめぇのために資料漁ってるんじゃねぇンだが」
「じゃあ何のため? 教えてくれたっていいじゃない」
「……つまらん野暮用だ。それよか勉強はいいのかよ。オヤジにポイントのイロハくらいは教わってンだろうな? いざ戦場に立って、場所ごとの戦い方も分かってねぇとシャレになんねぇぞ?」
「お、教わってるもん! 今日だってそうだから!」
いきり立って反発すると、両兵は目当ての本を見つけたようで、そのカバーの埃を払う。
「おー、ならいいんじゃねぇの。……って、これページ破れてんじゃねぇか。資料室って言っても、当てになんねぇよなー、ここも」
両兵が資料を縦に振って埃を出したせいで思わず咳き込んでしまう。それを一顧だにしないものだから、青葉はその資料を思いっきり引っ手繰っていた。
「あっ、お前……!」
「なになに、“人機の歴史学的見地における系統樹”……? こんなの知ってどうするの? 両兵には関わり合いもなさそうな本じゃない」
「アホ。この間会敵したトウジャが居たろうが。そいつに関して何か残ってないかと思ってな。ちぃとばかし身に合わないこともやってみてるってわけだ。……つーか返せ。そいつを調べンだよ」
「……でも、トウジャの操主は……」
広世のことを思い出して青葉はきゅっと胸の内が痛くなるのを感じていた。
いずれは戦わなければいけないのだろうか。お互いに顔見知りになってしまっても。
深刻に考えるこちらを他所に、両兵は青葉の手から資料を取り返す。
「返せ、アホバカ。てめぇが読んだってどうにかなる資料じゃねぇよ」
「……私だって操主だもん! 読めば、何か戦いのヒントになるかも」
「……じゃあ読んでみるか?」
いやにあっさりと差し出すので、青葉は怪訝そうにしつつも資料を広げる。
そこで、はた、と思考回路が止まってしまっていた。
「……全部英語……」
「当たり前だろうが。お前相手に分かりやすく翻訳してる資料なんてほんの一部なんだよ。それも、カナイマの頭の堅ぇ老人連中が日本語じゃねぇと頭に入らねぇとか理由つけてな。ほとんどは現地語だ」
「り、両兵はこれ……読めるの?」
「あン? そりゃー当たり前だろうが。何年こっちに居ると思ってやがる。むしろ日本語のほうが読めんくらいだ。……ったく技術者連中ってのは横文字大好きでいけねぇな。カタカナと漢字とひらがなを合わせられると混乱しちまう」
パンパンと資料の埃を払いつつ、両兵はそらんじてみせる。
「……なるほどな。《トウジャCX》……って黄坂は言ってたが、その情報自体は別に秘匿されていたわけでもねぇってことか。つーことは、あっちにもモリビトの情報は筒抜けだと思ったほうがいいな。そうじゃなくっちゃあの仕掛け方は不自然だ」
「……モリビトの情報がその……リークされたってこと?」
「有り体に言やぁな。まぁ、こっちの手が割れたところで関係ねぇ。要は敵より速く突っ込んで、そんで近距離でかましてやれば済む話だ」
あまりにも乱暴な考え方に青葉は心底呆れ返る。
「……じゃあ資料を漁った意味ないじゃない。トウジャの弱点とか、特徴とか、きっちり勉強しないと」
「……勉強、だと? オレに勉強しろって言ってンのか?」
何故だか硬直してしまった両兵に対して青葉は言いやる。
「だって、勉強しないと身につかないでしょ? 自分で言ったんじゃない」
こちらの応戦に対して、両兵は中空を睨んで思案しているようであった。
「……両兵?」
「……オレ、もしかしたら勉強ってもんをするのは久しぶりかもしれん」
目をぱちくりさせる自分へと、両兵は真剣そのものな声で尋ねてくる。
「……勉強ってどうするんだ?」
「どうって……例えば本を読んでそれを知識にしたりとか、後はこういう資料なら暗記したりするとかじゃない?」
それ以外に何が、と考えていると両兵はうっと呻いて蹲ってしまう。
「り、両兵? どうしたの? お腹痛いの?」
「……いや、何つーかその……そういうもんに対しての嫌悪感がすごくって……」
要はただの勉強嫌いということか。青葉は嘆息をついて資料室の一角にある机へと両兵の手を引く。
「ほら、立って? 勉強するのにはまずは形から入らないと」
「お、おう……。しっかし、地球の反対側に来て勉強する羽目になるとはな……。分からねぇもんだぜ」
「で、鉛筆持って?」
「こうか?」
そう言って掲げてみせた両兵の鉛筆の持ち方はまさかのグーである。
「……ふざけてるの? もしかして」
「いや、至って真面目だが……。んー……小坊ン時の記憶もほとんどねぇんだよな……」
「私を忘れていたくらいだもんね」