「でもさ、暗記法だとか、勉強法だとかは確立しているでしょ?」
エルニィの言葉にメルJは中天を仰ぐ。
「暗記法……。ああ、一度見たものなら忘れない方法はあったか」
「それそれ! そういうのが欲しいんだよ! ルイに教えてあげてくれないかな?」
「……何だ。黄坂ルイ。まさか私に暗記法でも教わりたいのか?」
これはまずい、といち早く察知したのは赤緒であった。
ルイはぴくりと眉を跳ね上げさせる。
「……何を勘違いしているのかしら。あんたに教わることなんて一個もないわよ、メルJ。せいぜい、脳筋の理論程度だけでしょう。庭先で銃の稽古でもしてらっしゃい」
「……何だと……」
案の定、一触即発の空気に包まれたので、赤緒とさつきが割って入る。
「ストップ! ストップしてください! ここで喧嘩は駄目ですよ!」
「そうです! それにルイさんだって、ここで点数取らないと思うように動けなくなっちゃうんですから! 抑えて抑えて!」
自分たちが割り込んだお陰で本格的な闘争にはならなかったが、それでも二人には要らないプライドがあるのか、互いに牽制する。
「私は喧嘩のつもりなんてない。だがこいつが……」
「私だって喧嘩になんてなるとは思っていないわ。レベルが違い過ぎるもの」
「何だと……!」
噛み付きかねない剣幕のメルJへと、赤緒はとにかく、と押さえ込んでいた。
「ヴァネットさん! 暗記法とかを教えてください! そうじゃないと、その、私たちが困っちゃうんですよ」
「むっ……赤緒の頼みなら仕方あるまいな。……教科書とやらを見せてくれ」
言われるがまま、教科書を差し出すと、メルJはぱらぱらと捲っただけでぱたんと閉じる。
「何ページの内容かを言ってくれ」
「えっ……えっとじゃあ、180ページ目の……」
するとメルJはするするとそのページの内容を暗誦し始める。
想定外の特技に全員が瞠目していた。
「ヴァネットさん……今のどうやったんですか?」
「どうって……覚えるだけなら簡単だろう? 特に丸暗記となればな。私にとって日本語の習得も似たようなものだったし、これくらいはみんなできるのだろう?」
これまでメルJがどうやって日本語を習得したのかは謎に包まれていたが、完全な暗記だとは思いも寄らない。
そっとルイを窺うも、彼女はやはりと言うべきか、舌打ちをして腕を組む。
「……そんなのできたら苦労しないわよ」
「まぁ、確かに。覚えるだけって言う点だからねー。メルJのそれだと、確かに高得点は取れるだろうけれど、そもそもの才覚の問題になるし」
「何だ。これじゃ駄目なのか?」
「駄目ってわけじゃないんですが……特殊過ぎると言いますか……」
その段になってルイは教科書を手にふんと鼻を鳴らす。
「……もういい。あんたたちを当てにした私が馬鹿だったわ」
「えっ、ちょっと。どこ行っちゃうんですか?」
「散歩よ、散歩。気分転換にね」
止めるような時間もなく、ルイは出て行ってしまう。
赤緒はさつきと顔を合わせ、どうしようと困惑していた。
「このままじゃ赤点……ううん、もっと悪い点数かも……」
「ですよね……。よし! 帰ってきたら、私、ルイさんを責任持って面倒を看ます!」
「さつきがそこまでする必要あるの? そもそもルイの問題じゃん」
エルニィの意見も分かるのだが、赤緒はどうするべきか探りあぐねていた。
「……ルイさん……」
「――第一、心配し過ぎよ。赤点取ったって死ぬわけじゃないんだし」
自ずとその足は河川敷に向いていた。
「レフト! 甘いぞ! もう一本!」
野球少年たちにノックしている両兵を目に留め、ルイは堤防に座り込んで教科書をぺらりと覗き込む。
しかし、一ミリも頭に入る気配はない。
ため息をつきかけて強風が煽っていた。
教科書が手から離れ、野球場へと落ちていく。
両兵がそれに気づき、目線が交錯していた。
「……黄坂のガキか。何の用だ? 出撃か? 訓練か?」
「いや、その……」
上手く話せない。それがもどかしい。
両兵は教科書を拾い上げ、それから、へぇ、と興味深そうに捲る。
「今の中坊ってこんなの習ってンのか。大変だな、学生身分ってのも」
「……別に、私は困ってない」
「アホ。困ってねぇ奴はそんな顔してねぇよ。……悪い! てめぇら! 後は自分で練習しといてくれ!」
「えー! 両兵が居ないと練習になんないんだよー!」
「オレ抜きでも勝てるようになっとけ。とりあえず今日のはここまでだ」
教科書を捲りながら、両兵は顎をしゃくる。
「ついて来いよ。落ち着いて話せる場所くれぇはある」
ルイは黙ってその後に続く。
橋の下にある両兵の居場所で、ルイは対面のソファへと促されていた。
及び腰に座り込むと、両兵はページを捲って尋ねる。
「で? どっからどこまでが分かンねぇんだよ」
「……誰も分からないなんて言ってない」
「教科書持ってその辺うろついてんだ。どうせ、勉強に行き詰ったから息抜きとかだろ」
図星であったので何も言えない。
両兵はふーん、ほーん、と教科書の内容を吟味してから、こちらへと向き直る。
その視線の真っ直ぐさに、思わず目線を伏せる。
「……どこが苦手だ? 分かる範囲で教えてやらぁ」
「……小退でしょ? 分かるの」
「馬鹿にすんな。これでも物覚えだけはいいんだよ。……って言うか、その点じゃてめぇもそうだろうが。人機の操縦をオヤジから教わってただろ? 何で今は勉強できねぇんだよ」
「……あれは、青葉が居たから……」
その言葉に両兵は得心したようだった。
「……なるほどな。確かに、何つーんだったか、えーっと、そういうライバルみてぇなのが居ないと張り合いがないってのはあるかもしれん。だが、オレにでも教えられる領分だってあるんだぜ? ……いっぺん、マジに勉強してみねぇか?」
「……そっちの台詞じゃない」
「ごもっともで。オレも勉強とか言い出すタマじゃねぇが、困ってんのならアンヘルメンバーとして助け合いだろ? 言ってみろよ。分かる範囲でなら、どうにかしてやる」
その言葉振りに、ルイは静かに不満を漏らす。
「……アンヘルメンバーとして、だけなんだ……」
「何か言ったか?」
「……別に。ここんところとか分からない」
「あー、ここか。日本の勉強ってのは語呂合わせと暗記がほとんどだからな。根気よく付き合っていくしかねぇだろ。じゃあ、次の問題は――」
「――ただいま」
「ルイさん! 私、ルイさんが分かるようになるまで、きっちりみっちり! 勉強にお付き合いしますから! だから――!」
「もういい。ある程度は分かったから」
「へっ……? ルイさん……」
鉢巻きを巻いてやる気を出していたさつきは完全に出端をくじかれた形で、自室へと戻っていくルイの背中を眺めていた。
「ルイさん、何かあったのかな……」
「分かりません……分かりませんけれどでも……今のルイさんの瞳なら、私が余計なことを言うまでも、ないのかもしれませんね」
悟ったさつきは「克己」と書かれた鉢巻きを外す。
ルイなりに、どうやらこの勉強の糸口を見つけたのは間違いなさそうだ。
「――んで、五十点、か。まぁ付け焼刃にしちゃ上等じゃねぇの」
橋の下でルイは両兵に答案を見せていた。
自分の答案が見られるのはどこか気恥ずかしいが、それでも言わなければいけないだろう。
「……あの、ありが……ありがとう……」
「ん? 殊勝だな、雨でも降んのか?」
「……でも、付き合ってくれないとその、多分赤点だった」
「お前自身の頑張りだろ。オレはちょっと口出ししただけだ」
両兵はバットを担いで野球場へと駆り出す。
その背中を、ルイは呼び止めていた。
「その……っ!」
「うん? どうしたんだよ。今日は絡むな」
「その、えっと……私も野球がしたい。それくらいは……いいでしょう?」
「んー、まぁ構わんが、後で黄坂の奴にうるさく言われない程度の言い訳は考えておけよ」
「……それくらい、何てことない」
ルイは答案を抱えて、両兵と並んで河川敷を歩く。
その時間が何だか特別な時間のようで、何度か口を開きかけては、意見を封殺していた。
「それにしたって、てめぇがきちんと点数取ったんだ。誇りにしていいはずだぜ。ま、一番なのは興味がねぇことにも興味を持つことだろうがな」
「それは……小河原さん、が……教えてくれないと興味持てなかった、から……」
「そうか? 案外、オレも教え上手なのかねぇ」
野球場に向かう途中、こっちの気持ちはまるで度外視の両兵に、ルイは一発蹴りを加えていた。
「痛って! 何だよ!」
「……うるさい。鈍っちいんだから」
「……何のことだよ、ったく。野球は足使わねぇからな」
今は、当たり前でも、共に歩むだけの時間が、何よりも眩しかった。
その眩しさはこれから来る季節への到来を予感させて、涼しげな風が吹き抜ける。
――ああ、そしてまた、夏が来るのだろう。