「……乗るところを見ておいてやる」
何だか、そう言われると緊張もする。
格納庫の陰から南が「頑張れ!」と言葉を飛ばしていた。
「……その、けれど上手くなくって……」
「構いやしねぇ。別に上手く乗れなんて言ってねぇだろ」
それはその通りなのであるが――青葉は先ほどまでよりぎこちなく、サドルに跨る。
ペダルを踏み込んで漕ぎ出そうとするが、やはりそう上手くはいかず、数メートルで頓挫してしまう。
「……そ、その……」
こっぴどく怒られるか、あるいは失望されるか――そのどちらかだと思っていた青葉は、立ち上がった山野の言葉に目を見開く。
「……視線が成ってねぇ。自転車漕ぐ時は、もっと前を見るんだよ。お前は下を見過ぎだ」
そのまま自転車の後部を掴み、それから煙草をくわえたまま、前を見据える。
「……へっ……? そ、その……」
「行ってみろ。後ろはきっちり掴んでやる。お前は漕ぐペースを崩さずに、前だけを見てろ」
意外、と言う心象が顔に出ていたのだろう。
山野はへっと嘲っていた。
「……俺がてめぇに世話ぁ焼くなんて、ねぇと思ってたか?」
「い、いえ……そこまでは」
「……モリビトの操主なんだ。できる、って気持ちだけはあるだろ。それに、胸に抱いたガッツもな」
「……ガッツ……」
何だか困惑気味にその言葉を噛み締めていると、山野は言葉を継ぐ。
「いいからやってやる、って言う気持ちだけは負けねぇはずさ。自転車にそれをぶつけてみろ」
「……は、はい。いいからやってやる……いいからやってやる……」
何度も唱えてから、意を決した青葉が地面を蹴る。
自転車は相変わらずよろよろと力ないのを、山野が檄を飛ばしていた。
「やれるだろ! お前は、モリビトの操主なんだからよ!」
その声が、言葉が、気概が、肉体に伝導する。
「……私は……モリビトの、操主……っ!」
思いっ切りペダルを踏み込む。
これまで速度を出すことに躊躇いがあったが、山野の言葉に背中を押されるように、青葉は思いっ切り速度に身を任せていた。
「大丈夫だ! 操主の背中は俺らが持ってやる!」
どうしてなのだろう。
平時は怒声ばかりで、機嫌や調子がまるで読めないのに――今ばっかりはここまで頼りになる言葉なのは。
確信と、そして心強さ。
青葉は漕ぎ出す己に、信念を浮かべていた。
前へ、前へと視線を向かわせる。
そうして、風が吹き付けるのを、どこか心地よく感じながら――青葉は前へと走り始めていた。
やがてペダルを漕ぐ自分自身を、信じられるようになる。
これまで所在なさげであったのが嘘のように、自転車は己の肉体の一部のように馴染んでいた。
訓練場を一周してから、青葉はあれ、と声にする。
「……いつから……離していたんですか?」
「さぁな。お前が自信を持つまでだろ」
山野は帽子を深く被り直し、それからニッと笑みを浮かべる。
南が拍手してこちらへと駆け出す。
「やったじゃない! 青葉、今日は自転車に初めて乗れた日ね!」
「は、初めて……。そっか、こんな感じだったんだ……」
別段、祖母が亡くなる前に、一度くらい義理立てしたかったのは嘘ではない。
しかし、それ以上に――自分を信じられていなかった。
こうして地球の裏側で、まさか今さらに誓いを果たせるとは思っておらず、その感情は熱となって頬を伝っていた。
「あ、あれ、……あれれ? 何で泣いちゃってるんだろ……」
「それくらい嬉しかったってことじゃない? 青葉、あんたは強くなってるのよ。ちゃんと、成長してる。それを実感できて、きっと涙が出るくらい嬉しいのよ」
「……そう、なんですかね……。私、けれどきっと……一人じゃ……」
目線を振り向けると、山野は踵を返す。
「何のことだかな。元々、バランス感覚はあったんじゃねぇのか」
山野のことが苦手だったのは本当だ。
けれど少しだけ――こうして歩み寄ってくれたことに感謝したい。
「……ありがとう……ございます。私、未熟な操主ですけれど、けれど絶対に……モリビトを、乗りこなせるような……立派な操主に、なる……ううん、成りたい……!」
「立派な志……って言いてぇところだが、それはもっと上手く人機を操れるようになってから言えよ。ハッタリじゃねぇって証明になってからな」
「……はい!」
「よぉーし! 今日は一日中、自転車を走らせましょう! それから宴よ! 宴! 青葉の自転車祝い!」
「……南ってば、結局お酒が飲みたいだけでしょ」
「何よぅ、ルイ。あんただって嬉しいでしょ? ライバルの青葉がこうして、負けん気が強くなったんだから!」
青葉が少しだけ当惑していると、ルイはぷいっとそっぽを向く。
「……ま、それくらいはやってもらわないとね」
ルイなりに自分と競っている部分もあるはずだ。
青葉はハンドルをしっかりと握り締め、それからペダルを漕ぎ出す。
明日に向かって力強く。
「……あれ? でも何か……忘れているような……」
「――両兵。軍部からの書類が来ているはずだが、どうなったか聞いていないか?」
「あン? ってか、ノックしろよ」
両兵は雑誌を読みながら寝転がっていたところを現太に起こされ、不承気に寝返りを打つ。
「それはすまなかったな」
今さらにノックされて、不機嫌なまま、そういえばと思い返していた。
「……青葉の奴が、オヤジに渡す用の書類を預かっていたはずだが……」
その時、訓練場から黄色い声が上がる。
窓の外を眺めると、青葉が自転車に乗って南とルイと一緒に訓練場を回っていた。
その足並みに溢れた自信と、それから遠巻きに眺める山野の姿に、何となくの行方を察して声にしていた。
「……あいつ、自転車乗れたんだな」
「両兵? 私から言いに行こうか?」
「……今は、ちょっとやめといたほうがいいと思うぜ。そうだな。……あいつらが思い出した頃合いを見て、きっといつもよりちぃとばかし自信を持ったアホバカが来るさ。それを待ったってバチは当たンねぇだろ」
ベッドに寝転がった自分の姿に、現太もそれとなく事の次第を読み取ったのか、そうか、と呟く。
「なら、それを楽しみにしていようか。自信を一つ、持った青葉君が来てくれると言うのなら」
「……誰も青葉だとは言ってねぇだろうが」
「お前を見ていれば分かるとも」
片手を上げて退室する現太の背中に、両兵はそれとなく尋ねていた。
「……なぁ、オヤジ。オレは手のかかるガキだったか?」
別段、そういうことを話したい気分でもなかったのだが、聞いておくのなら今なのだと思ったのかもしれない。
「……何だ、そんなことか。お前は今も昔も、ずっと手のかかる息子だとも」
「……何だよ、その返答。そこは手がかからなかったって言うトコだろ」
「嘘はつけないんだよ。青葉君のためにもね」
現太はそう言って唇の前で指を立てて、ふふんと鼻を鳴らす。
「……そうか。まぁ、そうだな。手のかかるほうが、まだありがたい、ってことなのかもしれん」
青葉が自転車を走らせて笑顔を咲かせるのを、両兵は窓辺からそっと見つめてから、また寝返りを一つ打っていた。
「ガッツだけは、あるみたいだかンな。それは期待してンよ、青葉」