バタバタとし出すエルニィにさつきは困惑し切っていた。
「ですけれど……まぁ、季節はもうすぐ梅雨ですし、そろそろ降るかもですね」
「梅雨かぁ! 梅雨、って南米で言うとスコールみたいに降るの?」
さつきは南米のスコールがイメージできないでいたが、さすがにそこまではいかないだろうと、考えていた。
「たまに……すっごく降る年はあるって聞きますけれど、スコールまでじゃないかもですね」
「じゃあさ! 出番もあるわけだ! ボクのとっておき!」
居間の端に置かれている箱には、エルニィが心待ちにしているとある物が置かれている。
「……ですけれど、本当によかったんですか? 雨が降るとは限らないのに」
「いーんだよっ! こういうのはさ、気持ちが大事なんだから」
いつになく上機嫌なエルニィは鼻歌交じりに軒先で足を投げ出す。
「お茶が入りましたよー……って、立花さん。何をしてるんです?」
赤緒が怪訝そうにこちらを眺めると、エルニィはふふんと鼻を鳴らしていた。
「赤緒にはヒミツー! ボクとさつきだけのね!」
「えー、何ですか? 仲間外れにしないで教えてくださいよ」
湯飲みを差し出した赤緒に、エルニィはしょうがないなぁ、とこちらへと向き直る。
「赤緒っ! もうすぐ梅雨だよね?」
「は……? あ、いえ、はい。そうですね。そろそろ梅雨の時期が近いかなぁ、とは」
「梅雨って言えば、分かるじゃんか」
あまりにも雑な問題の出し方に赤緒は理解できずに首をひねっていた。
「えーっと……長雨とか? あっ、洗濯物が乾かなくなっちゃう……」
赤緒の回答にエルニィは心底がっかりしたように肩を竦める。
「やれやれ。赤緒の性根は本当にオカンだから困っちゃうよ。他にあるじゃん。風物詩ってのがさ」
「風物詩……? あっ、カエルとかよく鳴いてますよね。それ……?」
「そうじゃなくって。雨が降るんだから、当然、必要なものはあるでしょ?」
「雨降り……梅雨……。うーん、全然結びつかないんですけれど……」
「はーっ! 駄目だなぁ、赤緒は!」
「なっ……駄目って何ですか、駄目って」
「あの、赤緒さん」
ちょんちょん、とさつきは思わず赤緒の肩を突き、耳打ちする。
「その……実はこの間、立花さんと下校時に――」
「――あれ? ルイとさつきじゃん。あ、今日は学校来てるんだ」
学校の廊下でエルニィと遭遇するとは思っておらず、さつきは当惑していた。
「あれ? ……何で学校で立花さん……?」
戸惑う自分にエルニィはむくれる。
「学校、通ってみたくなったから、申請書出そうと思ったんだよねぇ」
「……でも、立花さんって確か向こうの大学の首席だったんじゃ……?」
「もうっ、言いっこなしだよ、さつき。やりたくなったらやるってのがボクのポリシーみたいなものなんだからね」
「……要は、また一から学び直しってこと? ……本当に暇なのね、自称天才は」
「ルイは噛み付くなぁ。別にいいじゃん。ボクだってやりたいことの一個や二個は出て来るもんだし」
「あ、あの……いいと思います、私。立花さんが学校に生徒として通ってくれると、心強いですし」
アンヘルメンバーの結束も固まるだろう、とそう思い込んだ自分に、エルニィは不思議そうに中天を仰ぐ。
「……うん? いや、違ってさ。ボク、生徒じゃないよ?」
「……えっ。あ、立花さんって十五歳だから、もしかして赤緒さんのほうに……?」
「じゃなくって。ほら、これ」
差し出された書類に書かれていたのは生徒としての転入届ではなかった。
「……“特別教諭として、エルニィ立花の授業を許可する”……ええっ! 先生……ってことですか?」
「そうだって言ってるじゃん。元々、ボクの学力で生徒なんてやってたら、眠たいし退屈だしでレベル合うわけないじゃんか。だから、今後は教師として、ビシバシ! さつきやルイのテストの答案とかを見ることになるかもね! その時にはよろしく!」
何だか想定外なエルニィの合流に面食らうものはあったが、そもそもIQ300の天才少女であるエルニィにとってしてみれば、確かに日本の授業で満足できるはずもない。
「じゃあ、えっと……立花さんが先生に……?」
「うん。まぁ、最初は難しいところもあるかもだけれど、さつきたちの授業は一応、引き受けることになるかな。中学レベルなら大学で教鞭取るよか簡単だろうし、楽勝、楽勝!」
「そう言っていると、要らないところで落とし穴にはまるわよ。自称天才」
「……って言ってるけれど、ルイは結構、ヤバいんじゃないの? この間のテストも英語以外はワーストレベルだって聞いたよー?」
うっ、とルイが珍しくダメージを受けたのを目の当たりにする。
ルイは相変わらず学習しようという意欲がまるで感じられず、この間の小テストでも惨敗を喫していた。
「……小テストなんて、小手先なのよ。私の実力は期末テストで発揮されるわ」
「……そうかなぁ? さつきの成績は結構いいんだっけ?」
「あっ、でも私……数学がちょっと苦手で……英語もあまり……」
「じゃあ教え甲斐がありそうだね! ちょうどボクの担当科目だ!」
これから先、英語の授業や数学の授業でエルニィを見る日が来るのだろうか。
そう考えると、少しだけ身が引き締まる思いであった。
「……行くわよ、さつき。関わっているとロクなことにならないんだから」
「あっ、ちょっと待ってってば! じゃあ、三人で帰ろうよ。ちょうど書類も提出したし、帰っていいってさー」
「あ、じゃあ三人で……」
しかし、空模様は生憎の雨であった。
しとしとと降りしきる雨はなかなか止みそうにない。
「傘……えっと、一個だけですけれど……相合傘します?」
「アイアイ……傘?」
エルニィの顔が動物を想起したのを予見してルイがツッコむ。
「サル顔なのはあんただけでしょ。一緒に傘に入ることを相合傘って言うのよ」
「な、何をぅ……! ……って、あれ? ルイも傘持ってないの?」
「要らないものは持たない主義なのよ」
「……朝から今日の夕方には雨が降るって言っていましたけれどね……」
とは言え、ルイと相合傘をするのは慣れたもので、二人分で肩を並べていると、エルニィが物欲しそうな顔で呟く。
「いいなぁ、相合傘……。さーつき! ボクも入る!」
「うひゃぁ……っ! く、くっつかないでくださいよ……」
背後から抱き留められてさつきは素っ頓狂な声を出してしまう。
「……浮気者」
「る、ルイさん……。私は決して、浮気とかじゃ……」
「えー! いいじゃんかぁ! ボクと相合傘したいよね? さつきは!」
「……私といつもしてるでしょう」
凄味を出すルイと甘えてくるエルニィにさつきは完全に参ってしまっていた。
「……えっとあの……じ、じゃあ、三人で入りましょう」
「肩が濡れるわ」
「三人じゃ狭いってばぁ!」
とは言え、一人分の傘しか用意していないのは自明の理なので、今さら傘を増やすこともできなければ、三人分の濡れないスペースを確保することもできない。
「……ちょ、ちょっとずつ、進みましょう。三人でもみっちり入れば……」
「さつき、もっと寄せて」
「ルイが出ればいいんじゃないの?」
「……しゃしゃり出て来たのはあんたでしょうに」
「け、喧嘩しないでくださいよー。ただでさえ狭いのに……」
傘を差していると、小学生の集団下校に出くわしていた。
その瞬間、エルニィが声を上げる。
「あ! ねぇ、さつき! あれ!」
「こ、声が大きいですって……! で、何ですか?」
「あれあれ……あれって何?」
エルニィが指差したのはちょうどカッパを羽織った小学生集団で、さつきは疑問符を浮かべていた。
「……何って……カッパじゃないですか?」
「カッパって……えーっと、この間観た『超次元! 科学特捜ファイル!』に出てきた、妖怪の?」
「そっちじゃなくってですね……あれ、カッパって分かんないですか? うーん、なんて言えばいいんですかね……」
「レインコートでしょ。カッパって言うとあっちになっちゃうから」
「あっ、そうです、そう……でも、別に珍しくなくないですか?」
「色だよ、色!」
「色って……」
小学生は一律で黄色いカッパを着ている。
「いいなぁ! あれ、ブラジルカラーじゃん!」
そう言えば、とさつきは思いを巡らせていた。
「……あっ、そっか。ブロッケンと同じ色……」
「ねぇ、せっかくだし、どうせ濡れるんだからあれ、買って帰ろうよ!」
思わぬ提案にさつきは面食らう。
「……か、カッパをですか?」
「この小さい傘じゃ、意味ないみたいなもんなんだし、カッパを三人分買おう! うん、それがいい!」
「えーっ……でも、今さらカッパなんて……中学生ですよ?」
「年齢は関係ないんだってば! それに、全身にブラジルを纏っているみたいでカッコいいじゃん!」
どうやらエルニィの興味は完全にカッパに移ってしまったらしい。
この状態のまま、では別の日にと説得して帰りにつくのは難しいだろうと、さつきは早々に諦めていた。
「……分かりましたけれど、中学校の制服で入れるお店は……」
「大丈夫だって! ほら! ボクは立派な社会人!」
ふんす、と胸を反らすエルニィは確かに白衣を纏っており、一応この中では真っ当には映るが……。
「……立花さんも背丈でバレちゃいますよ」
「ええー、いいじゃんかぁ。カッパ買おうよ、ブラジルカラー……」
こうなると聞かないのは分かっているので、さつきは近場の服飾店を見繕っていた。
「じゃあ、その……あそこ入ってみます? 一応、それなりに揃っているとは思うので」
「よぉーし! レッツゴー!」
エルニィは勇み足になるが、雨脚が弱まる気配はないので三人で団子になりながら服飾店の扉を潜る。
ふぅ、とようやく息をついたさつきを他所にエルニィは物色を始めていた。
「えーっと、さっきのカッパはー……って、どうしたの? さつきもルイも妙な顔しちゃってさ」
「……そ、その……よくよく考えればこの年齢でカッパを着るのは恥ずかしいような気がして……」
「えーっ、何で? この間まで小学校だったんでしょ? さつきは」
「で、ですけれどぉ……そ、その……ようやく制服なわけですし」
正直なところ、小学校時代だってカッパは低学年のものであったのだ。
少し背伸びしたい年頃だと言うのに、今さらカッパを着るようになるのは飲み込みがたい。
「……うーん、分かんないなぁ、その羞恥心ってのも。ルイは何で?」
「……あんな目立つ黄色、正直着たくないんだけれど」
「じゃあ別の色にすればいいじゃん」
「……そもそも、傘で充分でしょうに」
「その傘は私のなんですけれど……」
押し問答をしているとエルニィはこれだからと言うように肩を竦めて大仰にため息をつく。
「……何よ、その態度」
「ルイはお子ちゃまだなぁ。ファッションのセンスで言えば、ボクのほうが上なんじゃないのー? カッパ着たくないって、ただの要らないプライドじゃんか。どんな時でも最高に着こなす! ……って、この間赤緒の読んでいたファッション誌にも書いてあったし、雨の日こそオシャレしないと損じゃない?」
エルニィにしては理論詰めた感じではなく、少し浮ついた言葉で違和感を覚えているとルイはぴくりと反応する。
「……聞き捨てならないわね。私があんたや赤緒よりもファッションセンスが壊滅的だなんて」
「壊滅的だとは言ってないけれどねー。まぁ、そう思ってるんなら? 戦う前に負けているみたいなものだし?」
「……言うじゃないの。自称天才……」
「た、立花さん……あまり煽らないでくださいよ……」
「さつきも選んじゃいなよ。えーっと、レインコートのコーナーは……っと」
エルニィがカッパを検分するが、どうにもいい色合いがないようであった。
「……うーん、何だか小っちゃいなぁ、どれもこれも」
「大人用のはありますけれど……」
大人用のレインコートはどう見てもファションという言葉に当てはまるような浮ついたものではなく、生地もやけに固い、黒一色だったり紺色だったりするものばかりだ。
「……うーん、地味ぃ……」
「だから言ったのよ。カッパにファッションなんて、意味ないって」
「うーん……けれど、女性物のカッパはあるでしょ? これ、男物じゃん。えーっと……ボクの身長が152センチだから……」
「さつきには似合うんじゃないの。あんた、まだ130センチでしょ」
「こ、この間の身体測定では、ちょっと伸びましたから……! あまり大きな声で言わないでくださいよ……」
伸長が低いのはそうでなくとも気にしているのに。
ルイは嘆息をついて、レインコートを物色する。
「……私は、そうね。これなんてちょうどいいんじゃないかしら」
ルイが取り出したのは紫色のレインコートで確かに彼女のイメージカラーに合っている。
「むぅ……ルイだけいいの見つけてズルいなぁ」
「あっ、じゃあ私はその……傘を……」
逃げようとしたさつきの首根っこをルイがむんずと掴む。
「……私だけ恥かかせようって言うの?」
「い、いえ……! そんなことは……」
「さつきも同罪よ。あんたのカッパは……そうね、これなんてちょうどいいんじゃない?」
差し出されたのは緑色のカッパで、頭のところに突起がある。
「……何でしょう、これ……」
被って姿見と対面すると、ちょうどカエルの顔になっていてさつきは羞恥心で耳まで真っ赤になっていた。
「……だ、駄目ですよ! 駄目です! こんなの……子供っぽいですし……」
「いや、ちょうどいいじゃん。さつきのイメージカラーは緑だし」
「……カエルさんの目が付いてますけれど」
「それも愛嬌じゃんか。……ボクなんてさっきから見つからないんだよね……。小さい子向けの黄色ならあるんだけれど……」
思えば、エルニィの身長はこの三人ならば一番高い。
ちょうどないのだろうという察しがつき、さつきは戸惑う。
「……あの、ルイさん」
「何よ。私はこれでいいけれど、お金は出してくれるんでしょうね?」
「ちょーっと待ってよ。……まぁ、お財布に関して言えばどうにでもなるけれど、まずはボクのカッパが見つかってからだってば」
あれでもない、これでもないと、エルニィは服飾を探る。
ルイと自分は少しだけ持て余して、近くのベンチに腰掛けていた。
「……立花さん、先生なんですよね、あれでも……」
「そうね。分不相応な称号ばっかりなんじゃないの」
「……ルイさん、でも立花さんが居ないとトーキョーアンヘルが回らないじゃないですか。……正直なところで言えば、立花さんには感謝してるんですから」
「いつも貧乏くじを引かされるさつきが、殊勝なことね」
「……いえ、でも立花さんが居ないと……きっと柊神社も、トーキョーアンヘルもここまで明るくないと思うんです。そういう感じで言えば……太陽みたいな人ですよね、立花さんって」
「雨空とは正反対だってのに、今はカッパを漁っているけれどね」
クールに振る舞うルイだが、決してこちらの意見を否定しないと言うことは認めているのだろう。
「……ルイさん、立花さんと長いんでしたっけ?」
「ちょっとだけよ。青葉が眠っている間に、モリビトの操主をやっていた頃は、あの自称天才が専属メカニックだったし」
「……そう、なんですね。……何だかちょっと羨ましいかも」
「羨ましい? 変なことを言うのね、相変わらず」
「だって、立花さんとルイさんの間には、もう言葉にするほどでもないほどの絆があったってことじゃないですか。それってちょっとだけ、羨ましいですよ。私って結局、アンヘルにとっても新参者ですし……」
「赤緒も似たようなものでしょう。メルJだってそうだし、別に古参だからいいってものでもないわよ」
何だか今はルイなりに慰めてくれているのだろうか。
それとも、やはり彼女はエルニィのことを、どこか腐れ縁めいて考えているのだろうか。
「……ルイさん、いっつも立花さんと行動してるじゃないですか。渋谷に行ったり、駄菓子を買ったり、ゲームも一緒にしたり……」
「ちょうど興味が合うだけよ。好き好んで一緒に居るわけじゃ……」
「いえ、でも、そういうことなんだと思うんです。好き好んで一緒に居るわけじゃないけれど、でも一緒に居ても嫌な気分にならない距離って言うか……。それがちょうどいいってことなんだろうなぁ、って」
「……さつき。もしかしてあんた、ちょっと妬いてるの?」
妬いている、と言われてしまえばどうなのだろうかと考えてしまう。
「……どう……なんですかね? 私、そういうのあんまり考えないタイプのつもりだったんですけれど……」
つい先ほど、エルニィが相合傘をしてくれた時――抱き付いてくれた時、打算もなく笑いかけてくれた時、嬉しくないわけでもないのだ。
それは別段、アンヘルの一員として距離を感じていると言う意味でもない。
ただただ、何のてらいもなく――。
「……立花さんは太陽ですから。一緒に居て、気分が満たされるってのは……本当かも知れません」
「……あの自称天才が太陽、ね。ねぇ、知ってる? さつき。惑星ってのは太陽を中心に回ってるんですって。この地球でさえも」
「あっ、そうですね。この間授業で習ったところ……」
「じゃあ、あの自称天才は、トーキョーアンヘルにとっての太陽だって言うのなら、みんなが振り回されるのも無理ないのかもね」
そう考えると確かにしっくりくる。
エルニィが太陽だと言うのなら、振り回されるのは当然の帰結だ。