ごくりと唾を飲み下したところで、シバは尋ねる。
「どうした? その短刀で私を殺さないのか? この距離なら刺せば簡単だろう?」
その通りだ。短刀で横っ腹にでも突き刺して抵抗すればいい。だがそんな気は一切起きなかった。
死の足音の穏やかさと、そしてシバの耳触りのいい死への導きに、自分は憧れていたのかもしれない。
この死が、自分を突き刺して、少しでも意味のあるものへと飾り立ててくれればと。
今まで生きてきた張り合いはここにあるのかもしれないのかとも。
だがその瞬間、シバの瞳に翳りが宿った。
「……死にたがっている奴を殺すのはつまらんのでな」
切っ先が剥がされ、シバの体重が消える。
自由になってもしばらくは高鳴る鼓動が収まらなかった。
――死への誘因。確殺への情景。
それらが間近にまで迫ったのに、また遠ざかった感覚に自分は当惑する。
「……何で、殺してくれないんだ」
「最初に会った時とお前はもう、違うからだ。自棄になって死にたがっている風でもない。絶望して死のうとしているわけでもない。お前は――私の与える死に魅せられている。だから殺さない」
どうして、と呼吸と大差ない声が漏れる。
どうして分かるのか、どうしてそこまで分かっていて殺してくれないのか。
問いを重ねる眼差しを注ぐと、シバは不意に天井を仰いでいた。
「……来たな。《ブラックロンド》を撃墜されれば惜しい。こちらの関知が生きているうちに潰す」
エレベーターへとつかつかと歩んでいくシバの手を、どうしてなのだか、自分は引いていた。
ここに来て初めて驚愕に表情を塗り固めたシバへと頭を振る。
「……死んでしまう」
「勘違いをしていないか? お前の両親や知人を殺したのは私だぞ? 仇に対してする眼ではないようだが」
確かにそうだ。仇に対して抱く感情ではないのかもしれない。
だが、もう知ってしまった。思い知ったのに、死んでいくかもしれない相手を呼び止めることもできないのは、それは二度死ぬのと同じようなものだ。
頑として離さない自分にシバはゆっくりと語りかける。
「……かつて私は切望されていた。ある重大な責務を負い、そして器となるために。……だが私にはもう、その役目はこなせない。こうしてロストライフの最前線で戦うことくらいしか貢献の手段はない。引き絞られた矢は命中しなければならない。それ以外の矢など、ただの浪費だ。私は獲物の心の臓を射抜く一本の矢でありたい。だから、お前とはここまでだ」
シバの掌にいつの間にか引き出された鉄片から衝撃波が発生し、自分は吹き飛ばされていた。
背中に感じる鈍痛と意識の混濁に、それでも奥歯を強く噛み締めて声にする。
「……でもあんただって……生きたいんだろう……ッ!」
死を渇望する自分から出た言葉とは思えなかった。
だが、黒の女はその希望を断ずる。
「ゆめゆめ忘れるな。キョムは動き出している。この世の全てを覆うために。もしその時が来たとしても、私はお前らの敵であり、そして何もかもを無に帰す刃だ。お前らの側がこちらに分け入ることもなければ私たちもお前らに肩入れはしない。どちらかの滅びでもってのみ、裁定は下される。その終末に、生き残っているかどうか……それはお前次第だ。生きろとは言わない。死ねともな。だが、自らの生き死には自らのみで決めろ。その手に刃があるのならば余計に、な」
その言葉を潮にして意識は闇に呑まれていった。
爆撃機は大国の上層部の独断であったこと、そしてシバは世界の敵、ロストライフ現象を先導する者たち――八将陣であったのを知ったのはそのすぐ後であった。
頑強な地下シェルターでむざむざと生き延びた自分は現地軍に保護され、黒煙の空を睨む。
燻る炎に、硝煙の香り。
また人が死んでいく。今日もどこかで、誰かが理不尽な理由で。
だが、と手の中にある短刀一つを、自分は握り締める。
これは選択肢の刃だ。
選ぶのは滅びの際になってもなお、自分の意思に他ならない。
決して誰かに丸投げしていいわけじゃない。
己の生き死には己が決める。
あの黒の女はそう言いたかったのかもしれない。
状況に流されて死ぬくらいなら、自刃せよと。
それはきっと、適当な理由で死んでいくよりかはまだ尊厳があるはずだと。
鯉口を切る。ぎらりと輝く死の象徴。脳裏で瞬くはあの時のシバの眼差しであった。
別れ際に、シバは侮蔑するでも、ましてや後悔するでもない。
――決めるのはお前だと。運命を切り拓くのは人の意思だと、そう言っているように思えた。
皮肉な話だ。
世界をキョムの闇で包むと豪語した女はきっと誰よりも――人の持つ意志の輝きを、信じているのだろうから。
それを知っている証が、携えた刃一つの、確かな重みであった。
「……そしてこれは、俺の命の重み、か」
呟いて滅びゆく空を仰ぐ。
今日はまだ――死ぬのには惜しい空だ。